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  1. 博士論文
  2. 令和元年度 (2019年度)

沖縄のアメラジアン ―移動と「ダブル」の社会学的研究―

https://konan-u.repo.nii.ac.jp/records/3462
https://konan-u.repo.nii.ac.jp/records/3462
50f49b88-b9aa-4e4b-8cf0-9f3ed0836bfd
名前 / ファイル ライセンス アクション
H00047.pdf 要約 (881.4 kB)
H00047_2.pdf 論文内容の要旨及び論文審査の結果の要旨 (341.0 kB)
Item type 学位論文 / Thesis or Dissertation(1)
公開日 2019-12-14
タイトル
タイトル 沖縄のアメラジアン ―移動と「ダブル」の社会学的研究―
タイトル
タイトル Amerasians in Okinawa: A Sociological Research of Migration and Doubles
言語
言語 jpn
キーワード
主題 アメラジアン
キーワード
主題 沖縄
キーワード
主題 国際児
キーワード
主題 ダブル
資源タイプ
資源タイプ doctoral thesis
アクセス権
アクセス権 open access
著者 野入, 直美

× 野入, 直美

WEKO 6535

ja 野入, 直美

ja-Kana ノイリ, ナオミ

en NOIRI, Naomi

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抄録
内容記述タイプ Abstract
内容記述 本稿では、沖縄のアメラジアンを中心に、「アメラジアン」というカテゴリーがどのように成り立ち、社会的事象として展開してきたのか、またアメラジアンを育ててきた母親とアメラジアンの若者たちが、現代の社会においてどのような経験をしてきたのかを、ライフヒストリー調査とアクション・リサーチによって明らかにした。
 アメラジアン(Amerasian)とは、アメリカ人(American)とアジア人(Asian)の両親をもつ人であり、とくに米軍の派兵と米軍基地の駐留を背景として生まれてきた子どもを含意する。この用語は、ベトナム戦争を背景として出生したアメラジアンの子どもたちの、ベトナムにおける遺棄の状況、深刻な差別と貧困がアメリカ合衆国で社会問題化されるのに伴って、1960年代から用いられ、1970年代に普及した。アメラジアンはベトナムだけではなく、タイ、ラオス、カンボジア、フィリピン、朝鮮半島、沖縄、そして沖縄以外の日本において、第二次世界大戦や朝鮮戦争による米軍の派兵、米軍基地の駐留を背景として出生してきた。
沖縄では、1960年代までの「混血児」支援は、国際養子縁組による子どもの渡米を中心としていた。1972年の「本土復帰」が近づくにつれて、子どもの日本国籍の有無が、教育や社会保障をはじめとする日本の市民権への包含/排除を二分するものとして認識されるようになり、肌の色の違いを表象する「混血児」に代わって、国籍に着目した「国際児」という呼称が、支援者によって用いられるようになった。1970年代から80年代半ばにかけて、沖縄の「国際児」支援運動は、日本政府に対して国籍法改正を求め、「国際児」の日本国籍取得による日本社会への包含を目指した。それは、あたかも沖縄の祖国復帰運動を再生産するかのように、「国際児」が「日本人」になることに、問題の解決を見出そうとするものであった。
1985年、沖縄からの強い要望もあって日本の国籍法は改正され、父系血統主義が両系血統主義に改まり、それ以降に出生する「国際児」は、原則として母親から日本国籍が得られるようになった。以降、目標を達成した「国際児」支援運動は、急速に退潮していく。
その後に起こったのは、「アメラジアン」という<名乗り>を打ち出す、母親たちによる教育権保障運動であった。アメラジアンスクール・イン・オキナワ(AmerAsian School in Okinawa、以下アメラジアンスクールと表記)は、1998年に、アメラジアンの母親ら5人の女性たちによって設立された。設立者の母親たちは、「アメラジアン」というひとつの単語の中に、ふたつの大文字のAを冠してアメラジアンスクールを表記した。ここには、アメリカとアジアの文化を等しく尊重する「ダブルの教育」の理念が込められている。母親たちは、敢えて「アメラジアン」という、日本ではそれまで用いられてこなかった称号によって<名乗り>をあげ、子どもの学びの場をつくった。それによって「アメラジアン」は、社会問題化と支援の対象であることから、主体的な当事者であることへ、<名指し>から母親による<名乗り>へと、重要な転換を遂げたといえる。「アメラジアン」は、学びのコミュニティのシンボルとなった。それ以降、アメラジアンスクールは、英語と日本語による「ダブルの教育」を提供する民間の教育施設として、20年にわたって運営されてきた。現在の生徒数は幼稚園から中学校課程までの69名で、NPO法人によって運営されている。学齢期の子どもたちは、地域の公立学校に在籍し、アメラジアンスクールに通いながら日本の学歴を得ている。
筆者は、アメラジアンスクールの設立2か月後から、母親たちのミーティングに参加し、運営に関わるようになった。また、アメラジアンスクールの内外で、アメラジアンを育ててきた母親と当事者である若者のライフヒストリー調査を実施してきた。本稿は、それによって得られたデータを用いて、実証的、かつ実践的なアメラジアン研究を試みたものである。また、自身のアメラジアンスクールへの関与と研究を、アクション・リサーチというフレームによって、研究と実践との関係性を考察した。

本稿は、序章、11の章による本論と補論によって構成されている。
 序章では、社会的なカテゴリーとしての「アメラジアン」の成立と展開を、アメリカ、韓国、フィリピン、そして日本におけるアメラジアンの研究史を位置づけて俯瞰した。
アメリカにおける研究は、ベトナム出身の在米アメラジアンの不適応を扱うものが多い。韓国からは、アメラジアン法と国際養子縁組によって多数のアメラジアンが渡米した。代表的な研究者は反基地フェミニストのマルゴ・オカザワ-レイである。フィリピンでは、アメラジアン法からの排除と米軍基地の閉鎖を背景として、高齢化するアメラジアンと第二、第三世代を対象に、ソーシャル・ワークの研究者たちが調査とケアを行っている。彼らが設立したアメラジアン財団は、アジアに残った/残らざるを得なかったアメラジアンを可視化し、出生地における社会統合という課題を提示した。沖縄のアメラジアンの研究は、心理学者で当事者であるスティーブン・マーフィ重松によって始まり、教育学、国際福祉学の領域でも行われてきた。理論との接合に課題が残されているが、実践性において優れた研究が見いだせる。全国的には「ハーフ」研究が興隆しているが、沖縄の文脈や沖縄におけるアメラジアンは十分には位置づいていない。

本論の第一部では、沖縄における「混血児」の社会問題化を、沖縄の本土復帰前後に実施された「混血児」調査に光を当てて検討した。沖縄では、1955年から1999年にかけて、10回の「混血児」「国際児」「重国籍児」調査が行われ、のべ7,761人が対象となってきた。初期の調査には調査方法の記述がないものが多く、調査結果をそのまま事実として分析に用いることは難しい。本稿では、調査のアクターと設問の構成に着目し、本土復帰前後における「混血児」の社会問題化の転換を、沖縄の社会変動と関連づけて考察した。
第一章では、米軍統治時代に実施された、1955年と1961年の「混血児」調査をとりあげた。1955年調査は、琉球政府文教局が実施したにもかかわらず、教育より福祉関連の項目が多く、父親による遺棄の実態を明らかにするものとなっている。学年が上がるにつれて「混血児」児童数は大幅に減少するが、学校からの離脱や就学先不明は問題とされていない。事実があり、調査によって明らかにされ、社会問題として認識されるというよりも、何を問題とするかというフレームがあって調査が実施され、調査結果が客観的な事実となってフレームを再生産していく過程が見いだせた。
第二章では、本土復帰後に行われた1975年調査をとりあげ、沖縄の「無国籍児」問題が日本の国籍法改正運動に接続していった経緯を明らかにした。本土復帰後における調査は、人種ではなく国籍を分類指標としている。母親の職業分類には「ホステス」「メイド」が設けられ、調査データがスティグマを再生産するものとなっている。また本章では、復帰前後にかけての沖縄全体と「混血児」生徒数を対比し、「混血児」は沖縄全体に比べて学校からの離脱率が高いこと、沖縄全体と「混血児」の間の開きは時代が推移しても縮まっていないことを示した。

第二部、アメラジアンの教育権保障運動をめぐる論考、第三章では、アメラジアンスクールの設立経緯を記述した。アメラジアンスクールは、母親たちが設立し、一定の公的支援と民間の援助を得る一方で、運営破たんの瀬戸際でありつづける厳しい状況が固定化されていく。沖縄県は、外国籍・重国籍児童の就学調査を実施したが、存在が明らかになった就学先不明の子どもを放置するなど、課題は残されている。
第四章では、アメラジアンスクールの生徒たちの背景と卒業後の進路について記述した。生徒には、海外からの転居や基地内学校からの編入、公立学校への転出などの、空間的、言語・文化的な越境を経てきた子どもが多い。この章では、公立学校からの編入生のケース・スタディによって、「ダブルの教育」の内容と、子どもの回復・成長の過程を描いた。また、卒業生の進路が、設立期における渡米中心のキャリア展開から、国内における高学歴化へと変化してきたことを指摘した。
第五章では、アメラジアンスクールの教育実践と進路保障について記述した。生徒の流動性の高さにもかかわらず、アメリカン・スクールの標準的な英語教育が行われていることがむしろユニークであるが、個々の教員のフレキシビリティに依存していることには問題もある。日本語教育は、設立期は英語教育に対して周縁的であり、国語教育を前提とした教え方がなされてきたが、外国語としての日本語教育を導入し、オリジナルな平和学習も行われている。進路保障は、成果をあげてきた一方で、学籍校とのトラブルが繰り返されており、公民連携には非対称的な関係性が見いだせる。

第三部は、アメラジアンの母親と若者のライフヒストリーの論考である。第六章では、アメラジアンの子育てについて、母親の語りをもとにケース・スタディを行った。ひとりの沖縄女性にとって、米軍関係者との国際結婚は日常生活の延長線上にあった。一方で、相手が米軍関係者であることは、妊娠の判明とほぼ同時に慌ただしく渡米を余儀なくされるなど、他律的な「軍事化された移動」を伴い、夫婦関係を不安定なものにした。彼女は、数年の間に結婚、渡米、出産、離婚と子連れの帰国を経験したが、沖縄では、シングルマザーとしての子育てを能動的に実践していく。この章では、先行研究における国際結婚家庭の教育戦略と比較し、アメラジアンの母親が、経済的、文化的資本に恵まれているがゆえの教育戦略の行使よりも、むしろ欠落の中で主体性を発揮していることを指摘した。
第七章は、アメラジアンの若者たちの比較研究である。ここでは、アメラジアンスクールの卒業生、沖縄の基地内学校で学んだ若者、岩国基地で働く若者、ハワイ在住のアメラジアンのきょうだいの事例研究を行った。共通して見いだせたことは、移動の経験、複数のホスト社会をもっていること、自身の経験に積極的な意味を見出そうとする能動性であった。アメラジアンは、ホスト社会における包摂支援の対象となることもあるが、必ずしもそのようなドメスティックなフレームに収まらない、越境と複数帰属を創造的に生きていく営為が見いだせた。

第四部は、映像表象とアメラジアンをめぐる論考である。第八章では、ニュース番組とドキュメンタリー映画、お笑いのコントのDVDにおいて、沖縄のアメラジアンがいかに表象されてきたのかを分析した。筑紫哲也ニュース23の特集は、アメラジアンの社会的な認知をもたらす一方で、「基地の落とし子」というスティグマの要素をはらんでいた。
第九章は、マイノリティ自身による映像の自己表象をとりあげ、アメラジアンスクールとブラジル人学校について制作されたドキュメンタリーDVDを比較し、映像の自己表象が目指しているベクトルの相違を指摘した。

第五部、結論の第十章では、現代社会とアメラジアンについて論述した。ここでは、文部科学省が用いてきた「日本語指導が必要な児童生徒」という支援ニーズ特化型のカテゴリーを、沖縄のアメラジアンという視点から批判的に分析した。また、沖縄における近年の外国人労働者、とくにネパール人の急増によって、マイノリティの子どもの構成が将来的に変化する可能性を指摘した。
第十一章では、方法論的枠組みとしての<アメラジアン>が、移民・移住研究とエスニシティ研究に、いかなる知見や論点を付与しうるのかを考察した。アメラジアン研究は、移民・移住研究に、「軍事化された移動」という新しい着眼と研究領域を付与しうる。従来の移民・移住研究は、軍隊の移動を対象としてこなかった。兵士は個人としてではなく軍隊として移動し、出入国管理や社会統合、包摂支援の対象とならないためである。シンシア・エンローは、「軍事化」という概念を用い、軍事が市民社会から切り離せないものであることを主張した。本稿で用いる「軍事化された移動」概念は、エンローの「軍事化」概念を踏まえている。「軍事化された移動」には他律性という特徴があるが、必ずしも子どもが親に、妻が夫に、軍隊関係者である個人が軍隊の論理に従属する関係を意味しない。
またこの章では、「ダブル」という概念がエスニシティ研究に寄与しうる可能性として、カテゴリーとしての「ダブル」の高度な操作性、構築性が、もともとエスニシティ概念の中にはらまれている脱本質性や流動性、可変性を顕在化させることを指摘した。
最後に補論として、アクション・リサーチのフレームを用い、実践と研究の分かちがたい関係についての考察を、筆者の経験に基づいた事例研究として行った。

沖縄のアメラジアンは、歴史的文脈から俯瞰すると、フィリピンと並んでアメラジアン法から排除された、アジアに残った/残らざるを得なかったアメラジアンであり、出生地における社会統合が大きな課題となってきた。しかし沖縄の場合、アメラジアン法からの排除はほとんど問題にならなかった。70年代から80年代半ばにかけて、「混血児」「国際児」支援は、アメリカ移民ではなく日本国籍の取得に注力していた。1985年の国籍法改正という大きな達成によって支援運動が退潮した後には、母親たちによる<名乗り>と学校設立運動が起こった。そこでもアメリカ移民ではなく出生地における社会統合が課題となったが、「日本人」になることによる平等ではなく、「ダブルの教育」による肯定的な自尊感情の育成が目指された。それまでの「アメラジアン」概念が、一貫してアメリカを主体、アジアを客体とするポストコロニルな文脈にあったことを踏まえると、沖縄のアメラジアンをめぐる展開の独自性、剥奪現象としての「アメラジアン」が当事者によって転換されたことの社会的な意義が見えてくる。その背景には、フィリピンとは違って沖縄では米軍基地が駐留を続け、アメラジアンの子どもが生まれ続けたこと、沖縄社会の生活水準が相対的に上昇したこともあった。
課題はいまだに残されている。アメラジアンを問う視点は、ひとつには日本国内のマイノリティとして、支援のフレームからとりこぼされてきた教育弱者の実態を明らかにし、社会的な課題の解決につなげていくことを目指さねばならない。一方で、アメラジアンを問う視点は、「日本におけるエスニック・マイノリティ」という認識枠組み自体のドメスティックなありようを批判的に問い直すことへと、回路をひらくものにもなりうる。アメラジアン母子のライフヒストリーは、「軍事化された移動」の他律性の中で模索される、能動的な越境者としての生であり、単一のホスト社会への統合を前提とする議論や支援のフレームの静態性を逆照射する、ダイナミックな動態である。
抄録
内容記述タイプ Other
内容記述 ■本論文に含まれる論考については、以下にも掲載している。
野入正美著『沖縄のアメラジアン : 移動と「ダブル」の社会学的研究』(MINWRVA社会学叢書62)ミネルバ書房, 2022年
野入直美「アメラジアンはチャンプルーの構成要素になっているか?」石原晶英・嘉納育江・山城新編著『沖縄・ハワイーコンタクト・ゾーンとして島嶼』彩流社, 2010年
学位名
学位名 博士(社会学)
学位授与機関
学位授与機関名 甲南大学
学位授与年度
内容記述 令和元年度(2019年度)
学位授与年月日
学位授与年月日 2019-09-16
学位授与番号
学位授与番号 乙第49号
著者版フラグ
出版タイプ NA
注記
値 本論文の内容は、書籍として刊行していることと、本論文に含まれる一部の論考が既刊の書籍に含まれていることから、差支えのない範囲で要約を公開する。
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Ver.1 2023-05-15 15:31:29.591804
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