本稿では、沖縄のアメラジアンを中心に、「アメラジアン」というカテゴリーがどのように成り立ち、社会的事象として展開してきたのか、またアメラジアンを育ててきた母親とアメラジアンの若者たちが、現代の社会においてどのような経験をしてきたのかを、ライフヒストリー調査とアクション・リサーチによって明らかにした。
アメラジアン(Amerasian)とは、アメリカ人(American)とアジア人(Asian)の両親をもつ人であり、とくに米軍の派兵と米軍基地の駐留を背景として生まれてきた子どもを含意する。この用語は、ベトナム戦争を背景として出生したアメラジアンの子どもたちの、ベトナムにおける遺棄の状況、深刻な差別と貧困がアメリカ合衆国で社会問題化されるのに伴って、1960年代から用いられ、1970年代に普及した。アメラジアンはベトナムだけではなく、タイ、ラオス、カンボジア、フィリピン、朝鮮半島、沖縄、そして沖縄以外の日本において、第二次世界大戦や朝鮮戦争による米軍の派兵、米軍基地の駐留を背景として出生してきた。
沖縄では、1960年代までの「混血児」支援は、国際養子縁組による子どもの渡米を中心としていた。1972年の「本土復帰」が近づくにつれて、子どもの日本国籍の有無が、教育や社会保障をはじめとする日本の市民権への包含/排除を二分するものとして認識されるようになり、肌の色の違いを表象する「混血児」に代わって、国籍に着目した「国際児」という呼称が、支援者によって用いられるようになった。1970年代から80年代半ばにかけて、沖縄の「国際児」支援運動は、日本政府に対して国籍法改正を求め、「国際児」の日本国籍取得による日本社会への包含を目指した。それは、あたかも沖縄の祖国復帰運動を再生産するかのように、「国際児」が「日本人」になることに、問題の解決を見出そうとするものであった。
1985年、沖縄からの強い要望もあって日本の国籍法は改正され、父系血統主義が両系血統主義に改まり、それ以降に出生する「国際児」は、原則として母親から日本国籍が得られるようになった。以降、目標を達成した「国際児」支援運動は、急速に退潮していく。
その後に起こったのは、「アメラジアン」という<名乗り>を打ち出す、母親たちによる教育権保障運動であった。アメラジアンスクール・イン・オキナワ(AmerAsian School in Okinawa、以下アメラジアンスクールと表記)は、1998年に、アメラジアンの母親ら5人の女性たちによって設立された。設立者の母親たちは、「アメラジアン」というひとつの単語の中に、ふたつの大文字のAを冠してアメラジアンスクールを表記した。ここには、アメリカとアジアの文化を等しく尊重する「ダブルの教育」の理念が込められている。母親たちは、敢えて「アメラジアン」という、日本ではそれまで用いられてこなかった称号によって<名乗り>をあげ、子どもの学びの場をつくった。それによって「アメラジアン」は、社会問題化と支援の対象であることから、主体的な当事者であることへ、<名指し>から母親による<名乗り>へと、重要な転換を遂げたといえる。「アメラジアン」は、学びのコミュニティのシンボルとなった。それ以降、アメラジアンスクールは、英語と日本語による「ダブルの教育」を提供する民間の教育施設として、20年にわたって運営されてきた。現在の生徒数は幼稚園から中学校課程までの69名で、NPO法人によって運営されている。学齢期の子どもたちは、地域の公立学校に在籍し、アメラジアンスクールに通いながら日本の学歴を得ている。
筆者は、アメラジアンスクールの設立2か月後から、母親たちのミーティングに参加し、運営に関わるようになった。また、アメラジアンスクールの内外で、アメラジアンを育ててきた母親と当事者である若者のライフヒストリー調査を実施してきた。本稿は、それによって得られたデータを用いて、実証的、かつ実践的なアメラジアン研究を試みたものである。また、自身のアメラジアンスクールへの関与と研究を、アクション・リサーチというフレームによって、研究と実践との関係性を考察した。